原因と結果
仏教には因果応報(人間の思考や行為の善悪に応じてそれ相応の報いがある)、哲学には因果律(原因にはそれに応じた結果が伴う)という用語があり、いずれも結果と原因は一対であるということです。それにもかかわらず、多くの人は自分が経験する災難や不幸をただ「運が悪かった」と言って、その原因を深く考えようとはしません。
降り懸かる災難や不幸の原因を生年月日に押し付けたり、先祖が犯した罪や供養の方法、あるいは仏壇の祀り方の間違いなどを原因に挙げる人もいます。しかし、生年月日は変えることができないし、先祖の罪は現世の自分には確かめようがなく、それが真実だとしても前世に戻って阻止せぬ限りどうする術もありません。
もし、前世に戻って子孫に罪を償わせるような悪い先祖を殺したとしたら、はたして現世の自分は・・・・・・・・・?
先祖は我が子である子孫が幸福に暮らせるように見守っているはずです。もしもご先祖様が供養の不足や方法の間違いにお怒りになったとしたら、お尻をたたく程度の罰なら与えるかも知れませんが、死ぬほどの苦しみを与えるとは考えられないし、また望むはずもありません。
先祖をお祀りするのは心の問題です。たとえ正しく祀られた立派なお仏檀でも、人気のない寂しい部屋にカバーを掛けっぱなしにしておくようでは決してご先祖様は喜ばれないでしょう。たとえ間違っていようとも、たとえミカン箱の代用品でも、心があれば立派な供養であり仏檀ではないでしょうか。
成功や失敗は誰の所為でもなく、すべて自分でその原因を造り、自分自身がその結果に喜び、あるいは苦しむのです。気学の一部である「方位学」ではその原因を過去の移転方位に求め、気学の根幹である「家相学」では長年にわたって住み続けた住居に求めます。
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